西条八十の「かなりあ」に想うこと
2014年 05月 09日
「日本の古い童謡…好きなんです」と「かなりや」を稽古に持ってきた。
勿論この童謡は知ってはいたけれど、改めてじっくり対面することができた。
「唄を忘れた金糸雀は…」で始まる西條八十(詩)成田為三(曲)なる曲。
大正7年に書かれた童謡。
詩がちょっと自虐的。なにか不思議。
でも最後の結びは、美しい夢のよう。
自分でも唱ってみると、
西條八十の心中深くを覗いてしまった気がして、ハッとした。
金糸雀の 悲しくも軽やかな身体に、
人の心のはかなさ、その愛おしさを重ねてしまうのだ。。。
「象牙の船に銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす」
と、結ばれている。。。。
海に浮かびそうにもない 重たい舟の煌々とした美しさ。
籠の外、海の外への憧れ。
やはり私はとうしても、
「うたを忘れたカナリア」を、
表現者の繊細な心と重ねてしまう。
それを払拭するものは、
うたを歌わせる喜びは、詩を書かせる喜びは、
もはやこの世にはありえない美が必要なのかと。
それほどまでに、君は次の高みを求めているのかと。
永く歌い次がれる曲の命かあ。。。
また、昨夜の生徒はコールポーターの難曲をもってきた。
ポーターの曲って劇画っぽいというか、作詞作曲本人であるし、
彼のニンゲンってものがドロドロでている。
いわゆる典型的な作曲形態でない壮大な曲も多く、歌詞も強烈なので
うっかり「勉強」なんて譜面づらで接していると曲に跳ね返されてしまう。
そんな曲は論じても始まらない。まずはサディスティックに限る。
のっけから極めてフィジカルにレッスンを進める。
ひたすらバンバン歌わせて頭で考えさせない。
身体で曲の魔力に酔わせてしまうのだ。
生徒も私も汗だくになる。そういうのが楽しい。
エリントン、ストレイホン、ミンガス、モンク、ダメロン、ガーシュウイン、and more...
いい曲には時を超える魔力がある。
文章も、絵も、すべてそうかもしれない。
歌はよいね。詩はよいね。
歌っていれば、本当に気持ちがいい。
歌っていないと、心が沈む。
カナリヤよ、歌っておくれ。
とかいって、今日の深夜は録音のお仕事へ。
ドラマ音楽らしいけど、どんな曲か解らず。
でも歌えば幸せなのでしょう。
蜂谷真紀
maki hachiya
はちやまき
by hachiyamaki_diary
| 2014-05-09 18:47
| ふくちう日誌